読解力とは何か


読解力について

最近、東大に通う学生が書いたブログが話題になった。

そのブログに対して
ある人が「無駄に長い(笑)」みたいなことをつぶやいた。

それに対して多くの人が
「思った」「途中でやめた」「結局何が言いたいのかわからない」とか書いてたけど
自分の読解力のなさを露呈してることを自覚したほうがいいと思う。

最近多いけど、映画のレビューでもニュースのコメントでも
「見てないけど~」「長くて途中で読むのを諦めたけど~」とか
うーん、レビューの意味わかってる?
それならなんでコメントしようと思ったのかわかんない。
ノルマでもあるの?
ページ開いたらコメントしなきゃいけない縛りでもあるの?

別にいいと思うよね。見なきゃいいとかね、人の勝手だとかね。
でも私真面目だから、記事とか映画に対して、純粋に他の人がどういう感想を持つのか、どういう意見を持つのか知りたいんよね。
例えばそのコメントを、自分の日記にしたためるのではダメなわけよね、多分。
そのページに書かなきゃ意味ないわけで。

先のブログに関してでも、わざわざリンクに貼って言ってるわけだから、そうすることに意味があるんよね。
まあ、著名な人がそういう発信をすること自体が意味が出てくるんだけど。
だから、ブログを書いた本人に悪影響になるかといえば、必ずしもそうじゃないかもしれない。

まあ本筋はそこじゃなくて。
このブログも「何が言いたいのかわからない」と思われると思うけど
だいたい情報というのは、100の中から1とか2とか自分で拾い上げるものなんじゃないかと思う。

だから、「何が言いたいの?笑」じゃなくて「この人の言っていることから、こういうことを思った」ということでいいんじゃないかな。提供されるものなの?情報って。

そういうコメントをすること自体が、自分が何かを拾い上げるレベルに達してなかったということを証明してることに早く気付いたほうがいい。

最近のビジネス本とかも文字は大きいし、余白も行間も大きくとってあるし、重要なところは赤線が引いてあったり太字にしてあったり至れりつくせりだよね。パっと見てどこを読めばいいかわかる。でもその情報で今後の行動に生かせるかな。

できるならいいけどね。別にいいんだけどね。


正直、そのブログは、文章量として?ページをスクロールする量として?長い。多い。
私も今日の昼休みを少しオーバーして読んでた。

でも、それが「無駄に」かと言われれば、そんなふうには思わなかった。
彼が「東大に合格する」ために、どんな過程を経てきたのか。私がそうだったみたいに、高2から受験勉強を始めたわけじゃない。
彼にとっては、中学受験からもう始まっていた。
「東大に合格する」ためには、母親は子どもを殴ることだってする。
結局、入学後に親との縁を切った。
それって、普通のこと?
そういう人もいるんじゃね、って言ったら、もうそれまでだね、何の発展性もないけど。

私の中では、子どもを殴ることなんて、どんなことがあったってするべきじゃないと思ってる。そんな私からしたら、勉強をさせるために殴る、手が止まったから殴る、なんて、何ていうか、一言で言うとおかしいと思うし、そんなに価値があることなのか本当に疑問。

やっぱり子供は覚えてるよね。どんなことをされた、どんな扱いを受けた。
その経験があるかないかって、やっぱりどうしてもその後の行動を変えていく1つになりうると思う。

それを、彼は、淡々と、必要以上に演技的に書くわけでもなく。
ずっと「静」ってかんじ。もちろん書いてないこともいっぱいあると思うけど、すごく客観的というか、書いてる自分を見るもう1人の自分が常にいるんだろうね。
長くなったけど、とか、そういう、読んでる人が思うだろう、っていうこともちょこちょこ挟んであって。

まあ、読んでほしいと思って書いてるからそれはそうだろうけど。



寒空と藤田嗣治展と日本酒の日曜日


今日はなんと京都に初雪が降ったらしい。
どうりで寒いと思った。

1ヶ月ちょっとぶりに行った京都は藤田嗣治展。

ポスターで見て初めて知ったんだけど
来週をリミットに控えて行けてよかった。
こういうのは「よし、行くぞ」と思って腰を上げないと行けないもんね。

今回の展示会は
彼がパリに行ったあたりからの作風の変化をすごくきれいに魅せてあって
藤田嗣治に初めて触れる私にはちょうどよかったかもしれない。

パリに渡ったのは26歳で今の私と同じ年。
行く前はパリの風景とかを書いてるただのおじさんかと思ってたけど
そうやって見ると、1人1人の人生があるんだな、と改めて思う。

パリに行った当初のなんとなく不安そうな顔と雰囲気と
防衛的な表情の人々の顔。

それに、売れなきゃやっていけない、っていう
芸術と現実の本音と建て前みたいな部分もなんか垣間見える気がした。

そこから10年、20年でいかに自分の画風を作り上げるか。
藤田ワールドを築きあげなきゃいけない。

1918年あたりで何枚描いたのかというくらい。
10年代後半から20年代の変遷も面白い。

なんか、そのあたりの時代だからもちろん戦争の時代なんだけど
このあたりの時代には有名な画家さんが多いよね。
ピカソシャガールもブラックも
それとも今の年代に取り上げられやすいのかわかんないけど。

すごく興味深かったのは
第二次世界大戦で日本に帰ってきて
その後の線画がすごく洗練されたことかな。

それまでって全体的にふわっとしてて
人物がいるけど風景と一体になってて実体がなさそうなかんじで。

あんまりファンタジー的な絵は描かないんだなーと思ってみてたら
戦後に人魚とか動物が裸婦の周りを囲ってる絵で、そのタイトルが「夢」だったり。
ファンタジーを描くにはそれなりの強さがいるのかな、と思ってたんだけど
そういう準備ができたのかな、と思ってみてたりした。

ダリとかのシュルレアリスムの人が絵を描くときに
いわばトリップ状態というか、意識と無意識の中間を目指したみたいに
ファンタジーを描くにはそれ相応の気概がいるんじゃないかと思っている。



その後、久しぶりの芸術鑑賞に満足して
その後は二度目の京都タワーサンドで鳥せい
生原酒おいしい。
満足の日曜日だった。


合格発表の思い出


なんか最近、精神的にも物理的にも忙しくて
気づいたら1週間以上経ってしまってた。
今日からまたがんばる。


昨日は公認心理師試験の合格発表があった。
結果は合格。ホッと一息。

合格発表と言えば、最近はネットで開示されることが多いけど
私が初めてネットで結果を見ることになったのは、大学受験のときだった。

高校3年生の1月半ば、私立の合格発表の日。
だいたいなぜか開示されるのはお昼過ぎで
タツに入りながらポカポカした陽気の中で発表の時間を待っていた。

18歳になったばかりのかわいらしい私は
結果を見るのが怖くて父上に電話したけど
「もう出てるんだから早く見ろ」と言われて
緊張感はどこへやら。そういうものなんだ、と思って結果を確認すると合格。


まあ、そんなもんだ。


それからというもの、もうわかってるものは早く見よう、結果がわからないものは今はどうしようもない、という心持になり
女の子たちが「どうしよう、どうしよう」と騒いでいるのを横目に
結果が出るものは出るんだ、と半ばあきらめに似た気持ちでいるようになった。

結果がダメなら、次にいくしかないもんね。


その時に学んだことはもう1個あって
受験勉強してるときって、自分自身が必死すぎて回りの状況とかあんまり感知できてなかった。
自分が必死に知識を詰め込んで教科書と向き合ってたから、きっと他の人も暗くて固い空気の中にいると思ってた。
終わってみたら急に周りの空気が見えてきて、年始のゆーったりした、先に書いたみたいにポカポカした天気で。なーんだ、そんなかんじだったのか、と思った気がした。
逆に、急に現実に戻ってきた気がした。


勉強してるのも楽しかったけどね。

今日から東京に旅行に来た。
明日はディズニー!楽しみだ。わくわく。


がんばれるとき、がんばれないとき


また月曜日。

月曜日は東海オンエアの動画が投稿されないからつまんない。

というか、この土日は土曜日のご飯もキャンセルで
日曜日に会うって言ってたのもなしになって。


でも一方で時間があったからできたこともあって。

ずっと行きたかったホワイトニングに行って
ずっと行かないといけないと思ってた整体に行って
汚い髪の毛もきれいにして、ネイルも直して服も買って。

できてなかったことが色々できてよかった。
美容週間だった。

こうやって重い腰が上がったのも
好き好き言ってくれる人がいたから。

自分のためだけに動くのがしんどいときもあるよね。

とはいえ、もう次連絡くるかわかんないけど。
なんだったんだあの勢いは。冷たくしすぎたかな。

つまんない(3回目)。

でも今度はディズニーが待ってるからがんばれる。
ショートブーツ買おう。それにワンピースも。
かわいい恰好して行きたい。


何かを大切にするとは


どうやったら

自分が大切に思ってることを大事にできるんだろうか。

大切なものは大切だって?
例えば、私はずっと、ハスキー犬を飼うのが夢だけど
将来の夢を聞かれて、ハスキーが飼いたいと思っても

じゃあ大きな家じゃなきゃダメだね、と言われたら
でも、黒柴でもいいかも、とか言いそうになる。

そうやって
「あ、でも」とか
「こうかもしれないから」
とか考えてるうちに
自分が大切にしてることもブレて薄れて
妥協点を見つけるのばっかりうまくなって
それが大人になることだと言われればそうかもしれないけど。

でもそれって、誰のためなんだろう。

そんなときに、自分の要求とか、好きだとか嫌いだとか、真っ直ぐに伝えられる人に会うと
自分の縮こまってるかんじが際立って
別にその人のことが好きじゃなくても、こんな人といれば楽なのかもしれないと思って
また、自分の判断ができてないみたいで落ち込んで。

そもそも、自分で判断なんてしなきゃいけないんだろうか?
じみへんでも、大事な判断は自分でしちゃダメだ。他人に決めてもらって、他人のせいにするんだ、って書いてあったけど
そんな逃避した考えをしてみる。


でもそう考えてる先から
人のせいにするより自分のせいにするほうが楽だと思ってる自分もいる。



はっきり言える人が羨ましいと思う反面
なんであたしはこうなんだ?ストーカー事件のせいか?
前までもっと自分の考えが言えてたはずだ
と思ってたけど

確かに、自分のことを阻害された気がしてたけど

よくよく考えれば、あたしはずっと
相手に合わせて、相手がどう思ってるか考えて反応してきた。

セックスするしないだって
相手はやりたい、自分は別にしなくていい。
でも、断る労力を考えたらやるほうが楽だと思ってた。


あたしはたぶん、ずっとこうだった。
だから失ったものを嘆くんじゃなくて、獲得しなきゃいけないんだ。

機能的文脈主義の考えを使ってみても
相手にストーカー行為に走らせるのは、自分のやり方が関係してないわけはない。
自責的になってるわけじゃなくて
結局そう考えるほうが建設的な気がする。

だって、「自分のせい」がまったくなくなったら
自分の人生は誰かに左右されることになるんじゃないか。
それなら、やっぱりちょっとしんどくても、自分のせいを作っておきたい。

これは「あたしが」大切にしてることに違いない。


結婚相手に求めるもの?


この前、久しぶりに街コンに行ってきた。
今の職場は本当に小さい職場だから、たまにそういう場に行って
他の、同年代の人と触れ合う。

それに、自分がどんな評価をされるのかよくわかって面白い。
まだ大丈夫っぽい。よかった。まあまだ25だった。

その中の1人の人と終わってから飲みに行ったんだけど
なんかひどく気に入ってくれたみたいで、質問、シツモン、しつもんの嵐。

何かの情報を引き出そうと思ったらそんなに直接的に聞かないといけないの?

日々カウンセリングをしてると質問の仕方は本当に大事だなあと思うし
一方で、答えるほうも、自分の答えをしっかり述べるのって結構大変だね。

「どんな人がタイプなの?」
「今までどんな人と付き合ってたの?」
「結婚はいつまでにしたい?」
「結婚するならどんな人がいい?」

うーん、正直、あんまり考えたことなかった。
今まで付き合った人がどんな人だったかなんて
対外に話すときになんて言っていいのかなんてわかんないな。今でも。
どんなふうにカテゴライズすればいいんだろうか。

それはつまり、「私と付き合ってる人」であって
形容詞で伝えられるものなんだろうか。
もちろん優しいけど(これは当たり前のことだからタイプには入らないらしい)、弱い部分でもあった。
品があって、忙しくてあんまり連絡が返ってこなかった。ちょっと変わった服のデザインが好きだった。
真面目に話すのが苦手で、お酒を飲んじゃうことがあった。
それはあんまり好きじゃなかったけど、大事に思ってはくれてたと思う。

こう思うと、結構、いいかんじに表現できたと思うけど
これを他者が読んだって何が言いたいのかわからないんじゃないかな。
当人は自分のことだってわかると思うけど。
相手に伝えられるように要素を簡略化すればいいと思うけど
AはBでも、BはAじゃないかもしれないからね。

こんなときに参考になるのは、やっぱり女性作家かな。

「僕だって、君が好きだよ」
「どんなふうに?」
また、わけのわからない質問だ。女が物事に意味付けをしたがる生き物だということは知っているが、時折、うんざりする。好き、という感情は、それだけで確立しているものではないのか。
(略)
恋愛というのは、結局いつも、こうして質問と詰問に終始する。
唯川恵 『100万回の言い訳』)


 本当そうだと思う。
でも、今回は男女が逆だっただけで。

求めるものは、と言われたら難しいけど
自分がしたいことはいっぱいあるから、応援してくれる人がいい。
そういうことかな。

今度会うことがあったら、会うことがなくても
考えてみてもいいのかもしれない。






 

力が抜けない都会

今週のお題「リラックス」

昨日、今日と久しぶりに2連休。
土曜日が基本午前はあるし、たまに午後まで仕事だったりすると、1日休んでまた月曜日を迎える。
それに、その日曜日も洗濯やら掃除やら買い出しやらしてたら気づいたら夜で、疲れを引きずったまま。

休みを迎える前日までは
休みになったらあれして、これして、って思ってても、その日を迎えたらそんな気持ちもどこへやら。
ベッドの中でyoutubeとお友達になって行動開始が遅れるし、家から出れないときもしばしば。
まあそんな1日もいいか。

リラックスと言えば、カウンセリングの中でも筋弛緩法とかリラクセーション法を使うことがあるけど
話に来る人はあんまり力を抜くのが上手じゃない。

特に不安感が強い人は心も身体もがちがちで、細胞の1つ1つが凝り固まってるんじゃないかと思うくらい。

それもそうだな、と思うのは仕事に行くときとか帰るときの電車の中。
あんな狭い空間にあんな人数が詰め込まれて、リラックスなんかできるわけないわな、と思うけど
田舎出身の私から見ると、街に住んでるだけで疲れたり病んだりする原因になると思う。


1月末に、この町に引っ越してきてもう8か月。
4月から新しい職場でも働き始めて、この半年は体の不調を感じることが多かった。
特に右半身のコリがひどい。寝るのも痛くて寝れないからお薬飲んだりしてなんとか過ごしてたけど。

それで始めたのがヨガ。
院のときに勉強してた人がいたけど、今まではあんまり必要だと思ってなかったし
何よりもヨガ教室って朝8時とかからやってるじゃん?
そんな時間に起きれるわけなくない?と思ってた。

でももう身体が痛すぎて。
右半身が痛いから、身体の歪みからくるのかな、と思ってやってみたけど
ふくらはぎからお尻にかけての筋肉がめっちゃ凝ってるのがわかる。
デスクワークのせいだね。


院のときとかは身体的なリラクセーション法とかあんまり興味なくてやってなかったけど
最近身体と精神の関係とかも注目されてきてるし、自分でやってみてよかったと思う。
筋肉って意識しないと伸ばさないしね。

心が緊張してる場合でも、身体のほうから緊張をほぐしてあげるのも1つ。
そんなかんじで、次は何を書こうかな。